Home » ミャンマー » 俺は 『先尼外道(せんにげどう)』 だったのか
9月
22

小生、仏教徒とはいえ俗に言う葬式仏教徒。

 

我が家の宗派は曹洞宗、宗祖は道元

 

道元の正法眼蔵にとんでもない事を発見した。

 

 

「薪、灰となりぬるのち、さらに薪にとならざるがごとく、人の死ぬるのち、さらに生とならず。」

 

                                 (現成公案)

薪が燃えて灰になる、それがもう一度薪になるはずがない。

 

薪が灰になってしまってから、もう一度薪にならないように、

 

人が死んでからもう一度人として生まれてくることはない。

 

身体がここに死んで霊魂はかしこに生まれる、など考えるのは仏教の考え方ではなく外道の見解である。

 

真の仏法は、常に即今(いま)・此処(ここ)・自己(じこ)を充実して、「仏(覚者」として生きる」ことだけを問題にするものである。

 

 

この論理からすると来生などと煽り立てる上座部仏教は外道の考え方か。

 

確かに、今が大事であり死後の世界などより、今ここに自己が有る事の方が大切だとの言いようも分かる気がする。

 

 

もう一つ

 

仏道には「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」と言って、仏陀は修行僧が酒に酔うことを激しく戒められた。

 

しかし、これは「酒は飲むな」という仏陀の禁止命令ではない。

 

悟りの人は衆生済度に忙しく酒など飲んでいるヒマはない。だから飲まない、というのである。

 

悟りの人は何ものにも酔わない、つま『酔生夢死」しないということである。

 

『酔生夢死』

酒に酔い夢みて生死する„  何のすることもなくして、ただ生きているだけという一生をおくる、ことをいう。

 

自分は悟りの人ではないので酒は飲んでもいいが、『酔生夢死』な生き方だけはするまいと思っています。

 

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