Home » ミャンマー » 現地を見ると、インパール作戦の無謀さに腹が立つ
1月
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第15師団(祭り)は昭和19年2月15日午後10時チンドウイン河を渡河して、祭り師団のインパール作戦は開始された。

その夜から戦闘は始まり、松村連隊の尖兵中隊は敵の機関銃に襲撃され、この敵を撃破しなければ後続が進めないと判断した中隊長は先頭に立ち突撃して敵を撃破したが、この戦いでインパール作戦初の中隊長と下士官5名の戦死者を出した。

そこはトンへ村から西北1kmの地点であった。

飛行機から見たチンドウイン河からインパールまでは1500m~2000mの山が連なり、今でもインド国境まで行くのは困難な場所とされている。

自動車は使えず駄馬か人力で兵器を運ぶ困難さは闘う前に将兵は疲れ果ててしまい、また重火器が極端に少なく、それを言うと司令官は根性で戦えと言う。

この様な作戦が上手く行くはずがなく、善戦した将兵も極限に達して、ついに7月12日戦線整理のの名目でインパール作戦は終了した。

しかし、撤退する将兵は食料弾薬は尽き果て傷病兵に与える薬も無くなり、英軍の追撃から身を隠しトンへの第2野戦病院患者収容所にたどり着いた。

途中の退却路(路ではなくジャングルの通りやすい場所)は傷病兵の死骸で白骨街道と呼ばれた。

15軍やビルマ方面軍からの撤退支援は殆ど受けられず自力撤退であった。

トンへ野戦病院は敵の探索から逃れるため窪地に有ったが、ベットもなくかろうじて雨露凌ぐ簡単な屋根があっただけ。

8月30日に祭り師団最後の部隊はチンドウイン河を渡河したが、増水したチンドウイン河を渡河できない患者は置き去りにされた。

終戦から15年後に戦友たちにより遺骨収集されたが地元の古老に聞けば完全ではないとという。

患者収容所にいた人たちはそれなりに埋葬されたが戦場からトンへまで、トンヘイからカレワまでは今でも道路が無い場所で、英霊たちは祖国に帰れず異国の地で眠っていると思うと胸が詰まると、同時にこの無謀の戦を計画実行した15軍の牟田口中将や計画を許可した参謀本部に憤りを感じてやまない。

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食べ物、お酒、たばこ等をお早苗氏て読経する井本氏




15師団(祭兵団) 右突進隊 渡河地点(現在のトンヘ村) 、右奥の砂浜に上陸した
古老からの聞き取り調査、飯盒の中子がある。


第2野戦病院患者収容所跡地、木の覆い茂っている箇所

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